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突然だつたので、房一は思はずその醜い顔に紅味をうかべながら、軽く頭を下げた。その拍子にごく自然に眼玉と真向ひになる位置を外した房一は、さつきから気を引かれていた馬の方をちよいちよい眺めやつた。
「まだつて、はじまつたばかりですよ」
木柵の男は、稍ひるんだ風に一寸黙つていたが、そんな風に怒鳴られることに慣れてもいず、又予期していなかつたらしく、押し返すやうに低いバスの音で云ひ返した。それはどこか、命令することに慣れた、威圧するやうな響きを含んでいた。
房一は椅子から立ち上つた。
男は面喰つて何を云はれているかはつきり判らないらしかつた。房一はその眼の中をしつかりとのぞきこみながらつゞけた。病院づとめの生活で、房一は患者の気持をのみこんでいた。たとへ病気がはつきりしなくても正直にありのまゝを云ふのは禁物だつた。病人は何か断定を欲するものだ。今の場合は別だが、十二指腸虫といふ名前さへろくに知らないこの男に、いきなりその病源を云つたところで疑はしく思ふのは明かだつた。
「あんたは鮒をたべなさるかね」
「患者さんですよう」
何のためか、どういふつもりか、練吉は矢庭に房一の肩をぐんと押した。そして、自分は逸早く溝をとび越して、土手を駆け上つた。下の方では、黒い一杯の人だかりの間からは何やら鋭い言葉を叫ぶ者がいた。練吉が駆け上つた後から、房一も本能的に溝をとび越えた。事態は緊迫していた。練吉が何をしでかすか知れない、といふ予感が閃いたので。
「おれは!――」
二人が男を抱き起して、レザア張りの診察台へつれて行つた。男は殆どされるまゝになつていたが、身体は案外自由が利くらしく片手をつかつて横になつた。そして又もやぱつちりと眼を開け、不安さうに房一を見上げた。
電灯のない時代はもちろん、その設備が出来てからでも、地方の電灯は電力が十分でないと見えて、夜の風呂場などは濛々もうもうたる湯気に鎖とざされて、人の顔さえもよく見えないくらいである。まして電灯のない温泉場で、うす暗いランプの光をたよりに、夜ふけのふろなどに入っていると、山風の声、谷川の音、なんだか薄気味の悪いように感じられることもあった。今日でも地方の山奥の温泉場などへ行けば、こんなところがないでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に比較して実に隔世の感に堪えない。したがって、昔から温泉場には怪談が多い。そのなかでやや異色のものを左に一つ紹介する。
「別に惜しいほどのことではありませんよ」つづけて、ふいに調子を変へると、
――彼は医者である。免状もある。開業もした。患者もどうにかつきはじめた。職業的には立派に医者としての条件を具へつゝある。だが、河原町ではそんなことは通用しないのだ。何か別のものが、職業上の条件以上のものがここでは必要だつた。